ねこと花のつぶやき

宇宙とは、ヒトとは、そんなことを考えていると元気が湧いてくる。

人が入らない森

コンクリートアスファルト、鉄、プラッチック、コンピューター、

様々な種類の電波、車の走る音、

テレビのニュース、人混み、数えきれないほどの人々の想念、

高層マンション、

それらが溢れかえっているところで、自分は、現在、生活している。

 

そして時々、そんな日常から一旦、離れて、

わざわざ遠くまで出かけ、

これら雑音の少ない自然の山を登ったり、海に出かけたりする。

大自然に抱かれることは、好きだ。気持ちがいい。

 

そして、自然はいいな、元気になるな、など単純に、思っていたし、

今もそう感じるが、

 

そんな自然の場所に、休日に、出かけ続けるうちに、

気がついたことがある。

 

人が全く寄り付かなくなった自然の森の場所と、

人が少なくとも寄り付いている場所の自然は、

明らかに、空気が違っていたのである。

歩きやすい、歩きにくい、といった問題ではない。

 

この感じを、自分なりに、

説明したくなり、今日は文章として起こしてみた。

 

ある日、そして、また別の日に、

好奇心で、観光客や、人が寄り付かない山の林に、

足を踏み入れたことがある。(マネしないでください。)

 

そして、歩きながら、奇妙な感覚に陥った。

 

なんだろう、

この、寂しい感じは…

 

なんだろう、

この、守られていない感じは…

 

いつもの山登りの、清々しいレジャー感覚と、

違う感じ。

 

人の少ない自然って、ほんとエネルギーチャージできるな、

マイナスイオンを鼻から思いっきり吸い込むぞ、といった感じが…

 

全くしない。

 

今、自分を包み込んでいる空気に、

鬱蒼としたものを感じている。

 

もしかして、いつも出かけていた自然、

観光客や、登山家が好んで行く、観光ガイドに載っている大自然

その大自然の美しさや感動は、

過去の祖先の人々に、発見され、

人に見られることを、人から少しでも手を加えられてきたことを、

自然は、喜びとしてきたのではないか、

そして、その自然に、

人々からのエネルギーが、

祖先の人々の発見と、開拓のエネルギーが、息づいていたのかもしれない、

もしかして、その違いを、今、感じているのかもしれない。

 

つまり、

物で溢れかえっている都会は、

人が思い描く想念と、その想念を受けとる人の想念の波が、ぶつかり

結晶化して、物質まみれの街として成り立っているが、

そこにハーモニーの感動が生じたり、悪意が生じたりしている。

 

観測される、観光客が踏み入る自然や、農地、憩いの自然公園、

登山家の好む山、観光客の好む美しい海などは、

地球や宇宙の想念と、その想念を受けとる人との想念の波が、

ぶつかり、

結晶化して、素晴らしく感じるモノとして、

私達は、休日に出かけたり、

農地として、作物を育てたり、現実化しているのではないか。

自然と人とのハーモニーで、エネルギーが生じているのではないか。

 

人が入らない森は、鬱蒼としていくだけで、

人とのハーモニーがあまり生じていない。

 

伐採しすぎも良くないが、

自然にとって、人間は、

関わってほしい、

見てほしい、

喜んでほしい、

と思っているのではないか、

そんなこと、

人が入らくなった、

山の森の空気の中で考えてしまった。

 

自然は素晴らしく、感動することもある、

また、恐ろしい側面もある。

 

日本語では、「自然」は、山や海や緑という意味もあるが、

別の意味で、流れのままに、人為的でも、

計算や策略もなく、なすがままに、ありのままに、

といった意味もある。

 

流れのままに存在する大自然と、意志や観測の介入者である人間が関わることの、

調和とバランス。

右脳と、左脳とのバランス。

この調和が、大切なのかなもしれないな、とも思ったりもした。

以上、自然との関わりについて、綴りました。

徒然なるままの文章を、最後まで、

読んでくださって、ありがとうございました。

明日も良い日でありますように。