ねこと花のつぶやき

宇宙とは、ヒトとは、そんなことを考えていると元気が湧いてくる。

エネルギーバンパイア

みなさん!こんにちは!

 

お久しぶりの日記です。

前回の日記‥ 途中で終わっていたんですね‥

 

『現実は、体感が、中で起きている』

 

なるほど!

 

はっきり言って、そんなブログを綴っていたことすら、忘れてました!

自分のメモに復習させられたのと同時に、読み返していたら、

 

なんて、これまでの日記って、文章がわかりにくくて、

人様に伝わりにくいうえに、自己満足的なんだろうと、思いました。

 

もし、通りすがりに、そんな超気まぐれな、

この自己満足日記を読んでくださっている方がいたら、今日の日記を含め、

ありがとうです、そして、こんにちは😄です。

 

 

さて、前回の続きですが、ちょっとだけ、今回の表題と関連づけさせます。

 

(この流れも超唐突なうえ、無理やりです。)

 

エネルギーバンパイアについて。

 

最近、このテーマに考えさせられる事件が、自分の身の周りに起こったので、

メモしておきます。

 

こんな体感が起こり、そして、あるグループから抜けました。

 

『なんだか、この人といると疲れる。』

 

このワードって、インターネットで調べると、

だいたい、エネルギーバンパイア

という単語に出くわします。

 

そして、そーだったんだ、あの人から、エネルギー吸われてるんだ!

って、解釈して、納得するわけです、

 

そんな奴からは、逃げろ!ってなっちゃうわけですね。

 

でも!

 

まって!

 

(出典:フォトライブラリー 著作権あり) 
エネルギーは、箱で囲むものではない!?
囲ってしまうと、奪われるんじゃないか恐れる!?

 

話はそんな簡単に終わるんでしょうか?

 

そして、ほんとうに、エネルギーって吸われるの?

 

これ、前回の『現実は、体感が、中で起きている』

と紐づけて考えると、矛盾がありませんか?

 

実際、わたしの日常で起こった出来事なんですが、

あるグループのリーダーと関わるのが、しんどくなって、

そのグループから抜け、

なんとなく、この事件に関わった単語を、ネットで検索してたら、エネルギーバンパイアという文章に、出会ったわけですが、

 

最初は、うん、うん、と読みいってたのと同時に、

スピリチュアル の世界では、よく、エネルギーバンパイアって、聞くし、昔読んだことがあるなー、

と思ってました。

 

まぁ、要するに、そういうやつ(バンパイア)が居るので、

気をつけな!っていう呼びかけなんですが・・

 

そして、確かに思い返してみると、そのグループに関わっていたリーダーも、

毎回こう言っていたんです。

 

よく、子供の話を持ち出して、

 

『子供から、元気をもらわないとね』と、

 

さて、この言葉を聞いて、あなたなら、どういうことを考えますか?

 

わたしはというと、なんと、頭の中で、毎回こう考えていました!

 

『え?エネルギーって、自分と、源と繋がっていたら、

いくらでも、補給できるんじゃ

ないの?、子供からもらうものなの?』

 

『それに、自然(ネイチャー)と適切に関わっていたら、

いくらでも、元気になれるんじゃ?

エネルギーて循環してるんだよ』

 

『もしかして、この人って、エネルギーバンパイア?』

 

はい、

この『もしかして、この人って、エネルギーバンパイア?』という、

脳内思考・・

 

過去の悩める自分が、いつだったか、

どこかで読んだスピリチュアル の受け売り思考です。

 

この受け売り想念を、信じきり、強靭な想念として、自分の中に思考体系として、築いていたのでしょう。

 

すると、どうでしょう、

 

エネルギーバンパイアがいる世界が、わたしの世界として、

構築されていくわけです。

過去において、育ってきた環境についても、

こう思うわけです。

 

『わたしの親、エネルギーバンパイアだったんだ、

だから、子供の頃、しんどかったんだ。』

 

この罠にハマってしまっていいのでしょうか。

 

これからの人生、またもや、逃げても逃げても、エネルギーバンアイアに

出会すことになるのは、ほぼ確定です。

 

実際、エネルギーバンパイアについて研究し、綴っていた著者の方も、

永遠に、エネルギーバンパイヤと思われし人と出会い、

その構築された想念体系どうりに、しんどくなっておられるようでした。

研究成果は、実証され、正しかった、

そして、その想念の正しさは、経験にもとづき、実証され続けなくてはいけません。

 

科学においても、歴史においても、研究結果が実証されつづけ、

世界が成り立っていけばいくほど、想念は強固なものとなり、

物質世界は、あり続けることができます。

 

じゃあ、エネルギーバンパイアと出会わないようにするには、

どうすればよいのか、

 

事実、あなた、

そのグループのリーダーといると疲れたんでしょ?経験したでしょ?

そういう、エネルギーバンパイアっているんでしょ、

 

って話になるんですが、

 

これも、ちょっと、

待った!です。

 

では、

こういう信念に書き換えるのは、いかがでしょうか?

 

これは、あくまでも、ご提案です。

 

エネルギーバンパイアなんて、嘘っぱちだ。

 

これからの未来のストーリーの我が道を行くために、

わたしを愛してるがうえに、

相手は、これからの道を、示唆してくれ、

そして別離が発生した。

 

親についてもそうです。

毒親であればあるほど、その親から離れたくなりますよね。

 

わたしを自立させて、

自分の人生を歩ませてくれるために、

嫌な役を演じさせて、離れさせてくれた。

 

そう、書き換えると、

心に湧き上がるのは、周りに対して、感謝しかありません。

 

こいつ、わたしのエネルギー奪おうとしてんじゃないの?

エネルギーバンパイア、エネルギーバンパイアと唱えながら、

そんなこと、ずっと、考えてたら、

実際、ずっと、そんな奴と出会うことになります。

 

ところが、

そう考えるのではなく、

私との別離を成立させ、さらに、行く先を示唆してくれる方々との、

過去においても、最近起こったことに対しても、

感謝してみると、

 

また、違った現実を体感できるのではないでしょうか。

 

まあ、これも、どこかで聞いたスピリチュアル 思考の受け売りなのかも

しれないのですが、

 

無理やり、こうして、前回の日記の続き、

『現実は、中で、体感が起きている』

の並木先生がおっしゃっていたセンテンスに繋げてみました。

 

要するに、あまり、現実に意味づけしても、意味がなく、

ほぼ自分の人生は、自分の想念でできあがっているということを、

常々、思い出さないとなーと思います。

 

話は戻りますが、そして、なぜ、子供は元気なのか、

子供=元気、なのではなく、

子供の想念にも原因があり、大人でも子供なみに元気でいられるのでは可能

ではないかな、と思います。

 

また、これからも、色んな気づきがあれば、日記に綴ろうと思います。

 

ごきげんよう〜。

 

(自己満足メモ的な、

気まぐれ日記につき、綴るのがいつか分かりませんが😅今日も見返さず、

送信します。)

現実は体感が中で起きている

こんばんは。

並木良和さんのyoutubeで何度もおっしゃっていたことを、

メモ書きとして、記録しておきたいです。

後日、深堀りして、私なりの解釈を、文章にできたらと思ったからです。

 

『現実は、体感が、中で起きている』

 

重要センテンスです。

 

バシャールも、youtubeでよく言っていました、

『出来事や事柄はdon't matater(問題ではない)・・』その続きが思い出せないのですが、

要するに、同じことを言っていたのを思いだします。昔、よく見ていました。

 

それと、掛け合わせて、

 

『人間の意識が量子を動かすことが、実証された』

 

『内側からも見ているし、外側からも見ている。』

 

このセンテンスと、『現実は体感が中で起きている』のセンテンスとのコラボ

深堀の文章を、近々生み出せたらな〜と、

願いながら、

今日はこのへんで♪

 

 

地球はなぜ丸いのか

みなさま、こんばんは。

コロナがはじまった頃に、ブログをはじめ、

やっと、コロナ騒動が終わろうとしている今日この頃に、

また、パソコンを開けました。

 

あの頃と、全く違う自分がいます、不思議です。

 

意識が反転しました。

 

 

コロナ騒動以前は、物質スクリーンに、ガッツリへばりついてました。

 

現在は、スクリーンから、離れて見れるようになりました。

 

 

私は、意識体なんですよね。ええ、そうです、宇宙意識なんですよね。

 

地球は丸いというのは、そうかもしれないし、

そうじゃないかもしれない。

 

実際に、丸いんですが、

そんな風に見えてるモノ。

 

ずっとまっすぐ前進していくと、

もとの自分の背後を見る、

元の位置に戻ってくるという表現を、球というカタチにして、

自我意識(分離した焦点の位置)に認識される。

 

全ての物質は、意識を表現しているのですね。

 

太陽はすごく大きいかもしれないし、

そうでないかもしれない。

 

でも、実際は、空で、直径約5mmの光の点に、見える。

それは、わたし自身の中心。

 

物質世界にヘバリついているというのは、

巨大な太陽の周りを廻っていると思いこんでいるようなもの。

 

でも実際は、

あの直径5mmの光の点や、

美しい景色、隣人達、パートナーこそが、

この位置に焦点を合わせた自分(自ら分かれた)の現れだったのだ。

久しぶりのブログ

コロナ騒動が終わろうとしている。

マスクも来月から外してもいいことになった。

 

このブログを書きはじめたのは、コロナが流行しはじめて、

世界が大騒ぎしていた頃のこと。

 

この三年間の学生生活を過ごした、高校生、大学生達は、

外出もままならない学校生活を送っていたそうで、

これまでの、学生とは少し違う世代だと、

世間話の中で聞いた。

 

ブログを消そうと思ったけれど、

私の内面も、この三年間で、とても変化したので、

もう少し残してみようと思う。

人が入らない森

コンクリートアスファルト、鉄、プラッチック、コンピューター、

様々な種類の電波、車の走る音、

テレビのニュース、人混み、数えきれないほどの人々の想念、

高層マンション、

それらが溢れかえっているところで、自分は、現在、生活している。

 

そして時々、そんな日常から一旦、離れて、

わざわざ遠くまで出かけ、

これら雑音の少ない自然の山を登ったり、海に出かけたりする。

大自然に抱かれることは、好きだ。気持ちがいい。

 

そして、自然はいいな、元気になるな、など単純に、思っていたし、

今もそう感じるが、

 

そんな自然の場所に、休日に、出かけ続けるうちに、

気がついたことがある。

 

人が全く寄り付かなくなった自然の森の場所と、

人が少なくとも寄り付いている場所の自然は、

明らかに、空気が違っていたのである。

歩きやすい、歩きにくい、といった問題ではない。

 

この感じを、自分なりに、

説明したくなり、今日は文章として起こしてみた。

 

ある日、そして、また別の日に、

好奇心で、観光客や、人が寄り付かない山の林に、

足を踏み入れたことがある。(マネしないでください。)

 

そして、歩きながら、奇妙な感覚に陥った。

 

なんだろう、

この、寂しい感じは…

 

なんだろう、

この、守られていない感じは…

 

いつもの山登りの、清々しいレジャー感覚と、

違う感じ。

 

人の少ない自然って、ほんとエネルギーチャージできるな、

マイナスイオンを鼻から思いっきり吸い込むぞ、といった感じが…

 

全くしない。

 

今、自分を包み込んでいる空気に、

鬱蒼としたものを感じている。

 

もしかして、いつも出かけていた自然、

観光客や、登山家が好んで行く、観光ガイドに載っている大自然

その大自然の美しさや感動は、

過去の祖先の人々に、発見され、

人に見られることを、人から少しでも手を加えられてきたことを、

自然は、喜びとしてきたのではないか、

そして、その自然に、

人々からのエネルギーが、

祖先の人々の発見と、開拓のエネルギーが、息づいていたのかもしれない、

もしかして、その違いを、今、感じているのかもしれない。

 

つまり、

物で溢れかえっている都会は、

人が思い描く想念と、その想念を受けとる人の想念の波が、ぶつかり

結晶化して、物質まみれの街として成り立っているが、

そこにハーモニーの感動が生じたり、悪意が生じたりしている。

 

観測される、観光客が踏み入る自然や、農地、憩いの自然公園、

登山家の好む山、観光客の好む美しい海などは、

地球や宇宙の想念と、その想念を受けとる人との想念の波が、

ぶつかり、

結晶化して、素晴らしく感じるモノとして、

私達は、休日に出かけたり、

農地として、作物を育てたり、現実化しているのではないか。

自然と人とのハーモニーで、エネルギーが生じているのではないか。

 

人が入らない森は、鬱蒼としていくだけで、

人とのハーモニーがあまり生じていない。

 

伐採しすぎも良くないが、

自然にとって、人間は、

関わってほしい、

見てほしい、

喜んでほしい、

と思っているのではないか、

そんなこと、

人が入らくなった、

山の森の空気の中で考えてしまった。

 

自然は素晴らしく、感動することもある、

また、恐ろしい側面もある。

 

日本語では、「自然」は、山や海や緑という意味もあるが、

別の意味で、流れのままに、人為的でも、

計算や策略もなく、なすがままに、ありのままに、

といった意味もある。

 

流れのままに存在する大自然と、意志や観測の介入者である人間が関わることの、

調和とバランス。

右脳と、左脳とのバランス。

この調和が、大切なのかなもしれないな、とも思ったりもした。

以上、自然との関わりについて、綴りました。

徒然なるままの文章を、最後まで、

読んでくださって、ありがとうございました。

明日も良い日でありますように。

 

 

 

 

ムーンショット型研究開発制度について

2021年があけました。

昨年は、コロナ騒動の影で日本国政府ムーンショット目標も話題になりました。

今年はどんな年になるでしょうか。

 

さて、今さら、遅ればせながら、ムーンショット計画

(正式名はムーンショット型研究開発制度のムーンショット目標)について

今回は、綴っていこうと思います。

 

2021年1月の時点では、内閣府のホームページに、

ムーンショット目標(2020年9月更新)について更新されていますね。

 

では、私の解釈と言葉で、この計画を要約してみましょう。

 

唯物論的に偏った視点から、幸福を実現させる世界」

少子高齢化の対策としての労働力確保」

ということになります。

 

自分は脳だけの活動(遠隔操作)で、遠く離れた距離のロボットでも

自分の筋肉と体になって動いてくれる。

 

そして、100歳までは、人間誰しも病気せずに生きましょう。

病気は外側からやってくる、たまたまの不幸な唯物的現象なので、

唯物的に、病気を排除。

 

ネットの界隈では、「バーチャル環境」に、

アバターを自分の身代わりとして、

操作するようなイメージを持たれている方もいるようです。

(ゲームの世界のような解釈の仕方)

 

ある意味そうかもしれません。

 

(しかし、この世は、バーチャル環境ではなく、

ちゃんとした人間の意識によって作られ、

確かに実現されている実ったリアルな世界です。

この世がバーチャルだと思いすぎると、自分の空間が無機質になって、

自分自身もバーチャルのように感じて、

精神が病むのではないか…という感想がある。)

 

いろんな解釈がされるなか(時々、ん?と思う解釈もあります)

ただ、私個人的な解釈は、

人間の霊性的な面や、自然などの神秘的な空間は失われて、

無機質な離人症的な、

世界になっていくように、私には思えます。

 

人間の直感や感覚は、個々によって違いがあり、

確証や共感は難しいものですが

(だから面白いし、無理矢理に他者と同化する必要もない。)

では、

霊性的な面とは何か、そう問われると、答えに困りつつも

言えることは、

 

病気になぜなるのか、

「精神的なものが先」で、

私たちは、

病気になることで、かえって気が付くことや、

守られるものがあり、病気はっして不幸なことではありません。

これは、スピリチュアル界隈でも、宗教でも昔から言われていることで、

受け売りと言われれば、そうですが、実体験でも感覚的に確信していることで、

ここまで、「精神や意識が先」が、

蔑ろにされている世界が大多数であるのも不思議に思います。

いえ、分かっているけれど、

利権的にその理解にフタをしているのかもしれません。

 

人生による幸福感も、様々な経験により変化します。

 

臓器移植も始まった頃から疑問に思っていましたが、

私個人には、止めることができず、恐れていた臓器売買がやはり

起こってしまいました。

 

いろんなことが言われていますが、ものすごく無責任で、俯瞰的ですが、

この無機質感の世界は、行くところまで行ってもよいのではないか、

そうも思ったりします。

 

現在でも、ゲームの世界に没頭しすぎて、

リアルな自分以外の人間を、ゲームの中の無機質な画像のようにしか

感じられない人口も少なからず存在し、

リアルな人間とのコミュニケーション能力が蝕まれてしまわれている人々もいます。

 

そして、そんな世界の中にいるせいで、

生身の人間は、周りには誰もいなくなり、

家から出なくなり、孤独になり、またゲームの世界に入っていく、

という循環世界の住人も存在している。

何処かで分かっているけれど、これもまた、

ゲーム会社の利権に巻き込まれているのかもしれません。

 

確かに、遠隔操作により、危険な仕事や、重労働はロボットがするようになれば、

プラスの面も、この計画には含まれており、

一概に全てが誤っているわけではありません、有り難い話です。

少子化によって、高齢者を支える仕組み作りとして、

逆ピラミッドになる人口を、ロボットによる労働力で支えることになれば、

この問題も解決されるかもしれません。

 

労働力をロボットに変換していき、

地球上の人口を徐々に減らしていく方向で、

これまでの、人口爆発によって起こった様々な問題が、

解決されていくかもしれません。

 

しかし、このムーンショット計画の世界が実現した後は、

人間の霊性的な部分が益々忘れ去られて、

活気ある人と人とのコミュニケーションが激減し、

精神的に病んでしまう人口が

増加するようにも感じています。

(精神を病むことも不幸ではなく、経験の一つにすぎませんが…)

 

SNSに、ロボットのペットに、アンドロイドに、

人口植物に、

本当の寂しさを癒やしてもらえるのは、

難しいのではないか。

リアルに人と人との交流としての、自然や動物との、

目に見えないエネルギー交換はできないのではないか。

唯物論は、行くところまで行けば、やっと人類も気がつき始めて、

ロボットのペットではなく、

怪しく思われるかもしれませんが、動物とのテレパシックな会話や、

自然との共生と(私個人のイメージでは、映画のアバター1のような、

動物や木などと一体になったり(笑))

霊性が進化する方向に、はじめて転換できるかもしれません。

 

改めて、もう一度付け加えますが、

この計画の全てが、デメリットだということではなく、

ロボットの世界を人類は経験してもよいかもしれないが、

人口ロボットやバーチャルのみの世界は、

自然に作られた世界にはけっして敵わない、感動や幸福感が失われていく世界に、

蝕まれていくという側面もあるのではないか、

もっと、

「自然や植物や動物を主に、霊性や精神を主に、

ロボットを属とした視点の方向に、これからの世界が進んでいってほしい」、

という希望をもちたい、

そんなことも、考えたりするわけです。

あくまでも私個人の見解と、感想である。

『時間は逆戻りするのか』

高水裕一さんの『時間は逆戻りするのか』を読みはじめました。

 

2019年、量子コンピューターを用いた実験で、ロシア、アメリカ、スイスの共同チームが、

『時間が逆転する現象』を初めてとらえるこにに成功した、とのこと。

 

この本の導入ページでは、そして、こうはじまる。

 

『人生の転換点で、自分が決断し自分が実行したと思っていることが、

じつは、そうではなかった。

私の決断によって起こったはずのできごとが、じつは私の決断より先に起こっていた。』

 

著者は、まるで、SF小説のような語り口で、こうして読者を本文に引き込む。

 

最近の物理学の学者の本は、宇宙の真理は結局のところよく分からないが

(はっきりとはそう言わない)、

人間の個々観測、人間個々の時間、などといった、たくさんある宇宙、

を語る方が多くなってきた。

そして、こういった本が、ベストセラーになるほど、人々もそのことを、

認識しはじめている。

カルロ・ロヴェッリ氏の著作が近年では代表とされるだろう。

 

この『時間は逆戻りするのか』もこういった、素人にも分かりやすい文体で、

宇宙を語っている、新しい著作物である。

 

世界のほとんどは、対称性がある。

 

陰陽、男と女、酸性とアルカリ性、粒子と反粒子、などなど。

しかし、時間はどうだろ。

実生活のわたしたちは、一方に、時間は流れているように感じ、対称性など、

感じてはいない。

 

過去と未来は、対称ではなく、別ものである。

 

けれど、氏言わく、自分の決断したと思っていることが、

じつは、そうでもなかったという事象。

 

こういった経験や、感覚について、どうだろう。

わたしについては、時折感じることがある。

 

人生の点と点が結びつき、この結果は、あの時‥やけに悩んで決断した、

あのことがあったからか‥。

 

はたまた、この結果は、つまり、自分の両親からのなんらかの影響だったのか、

と何年も後で気付いたり。

 

人生では、このことは、原因より、結果のほうが先だったのではないか、

そう思うことは、よくあるものだ。

 

この感覚は、つまり、時間の逆戻りのような、感覚だ。

 

現代の物理学では、難しい理論より、こういった人間の感覚を主体にした思考を、

人それぞれの時間や、

観測者が見る世界、人生主体者を軸にして、

語っている著作が多く出版されてきている、

機会があれば、手にとって、楽しんでくだされば幸いです。